Turning Points
紅茶を動かした事件
いま当たり前に飲んでいる一杯は、ずいぶん荒っぽい経緯の先にあります。 海に投げ込まれた茶箱、変装して国境を越えた植物学者、 島じゅうのコーヒーを倒した菌—— 年表の一行の裏側にある6つの話を並べました。
この記事について
年表(紅茶の歴史)に並ぶ出来事のうち、背景まで知るとおもしろいものを選んで書きました。年号は年表と揃えています。「紅茶のせいでこうなった」という単純化はしないよう気をつけています。
46の出来事を通しで見るなら 紅茶の歴史 →
1773年
ボストン茶会事件
茶を海に投げ捨てた事件。ただし怒りの矛先は、茶の値段ではありませんでした。
この年の茶法で、茶はむしろ安くなるはずだった。
1773年、ボストン港に停泊していた船から、大量の茶箱が海に投げ込まれました。アメリカ独立への流れを決定づけた出来事として知られています。
よく「重い茶税に怒った」と説明されますが、この年に成立した茶法(Tea Act)は、東インド会社が植民地へ直接茶を売ることを認めるもので、茶の値段はむしろ下がるはずのものでした。経営難に陥っていた東インド会社を救うための法でもあります。
反発の理由は値段ではなく、独占と、そこに紐づいた課税の仕組みそのものでした。安く売られたところで、本国の議会が植民地に税を課す構図を認めることになる——「代表なくして課税なし」という主張はここに関わります。密輸で茶を扱っていた商人にとっては、安い正規品は商売敵でもありました。
つまりこれは「税が高いから怒った」話ではありません。何を認めることになるのかをめぐる争いでした。
1839〜1842年
アヘン戦争と、茶の代金
茶の代金を銀で払い続けたことが、戦争の背景のひとつになりました。
イギリスは茶の代金を銀で払い続け、その穴埋めにアヘンを売った。
18世紀のイギリスにとって、茶は中国からしか買えないものでした。中国側がイギリスから買いたいものは少なく、代金は銀で支払われます。イギリスから銀が出ていく一方の状態が、長く続きました。
この不均衡を埋めるために持ち込まれたのが、イギリス領インドで作られたアヘンでした。中国へアヘンを売り、その代金で茶を買う——という三角の構図ができあがります。アヘンの取引が膨らむと、今度は中国から銀が流出するようになりました。
アヘンの害を前に清朝が取り締まりを強化し、林則徐がアヘンを没収・処分したことが直接の引き金になりました。ただし開戦に至る背景には、貿易を広州一港に限る仕組みへの不満や、通商の拡大を求めるイギリス側の圧力も絡んでいます。1842年の南京条約で香港島が割譲され、広州・厦門・福州・寧波・上海の5港が開かれました。
茶だけがこの戦争を起こしたわけではありません。ただ、「茶の代金をどう払うか」という問題が背景にあったことは押さえておく価値があります。日常の一杯が、これだけ大きな力学に繋がっていました。
1848〜1851年
ロバート・フォーチュン、中国へ潜る
変装して内陸へ入り、茶の樹と製法をインドへ持ち出した植物学者。
「緑茶と紅茶は同じ樹から作られる」——それを見てきていたから、この計画は成り立った。
イギリスは茶を中国から買うほかありませんでした。それなら自分たちの領地で作ればよい——そのために送り込まれたのが、植物学者ロバート・フォーチュンです。
外国人の立ち入りが制限された内陸の茶産地へ、彼は中国風の服装で入り込みました。集めた茶の樹と種子は、ウォードの箱と呼ばれるガラス張りの携行箱で運ばれます。当時、生きた植物を長い船旅で運ぶのは難しく、この箱が成否を分けました。
同時に、製茶の職人も伴ってインドへ渡ります。苗があっても作り方が分からなければ茶にはならないからです。
当時のヨーロッパでは「緑茶と紅茶は別の植物から作られる」と広く信じられていました。フォーチュンはこの任務より前、1840年代前半の中国旅行で緑茶の産地と紅茶の産地の両方を回り、同じ樹から作られていることを報告しています。違うのは植物ではなく、摘んだあとの扱いでした。この見立てがあったからこそ、中国の樹をインドへ移せば紅茶が作れる、という計画が成り立ちます。
関連ダージリン →キーマン →歴史 →紅茶・緑茶・烏龍茶の違い →チャノキ(アッサム種・中国種) →酸化発酵 →紅茶のよくある誤解 →
1866年
ティークリッパー競争
その年の新茶を最初にロンドンへ届けるため、帆船が地球の反対側から競走しました。
3か月以上かけて走って、着いた差は30分足らずだった。
19世紀、その年の新しい茶を最初にロンドンへ届けた船には割増の運賃がつき、新茶そのものも高く取引されました。そこで生まれたのが、中国からイギリスまでを走る帆船——ティークリッパーの競争です。
1866年のレースはとくに有名です。アリエル、テーピン、セリカの3隻が福州を同じ潮で出港し、99日かけてロンドンへ入りました。先頭のテーピンとアリエルの差は、着岸で30分足らずだったと伝えられています。
クリッパーは船体を細長くし、帆を大きく張った速さ優先の設計でした。積める量より速度を取る——茶の鮮度に値段がついたからこその形です。
この競争は長くは続きませんでした。1869年にスエズ運河が開通し、蒸気船が短い航路を安定して走れるようになると、帆船は商業上の優位を急速に失っていきます。運河は帆船には使いにくく、蒸気船の側も積載量と定時性を上げていました。
1869年
コーヒーの島が、紅茶の島になった
さび病がコーヒー農園を壊し、セイロンは紅茶へ切り替えました。
いまのセイロン紅茶は、コーヒーが病気で倒れた跡地に広がっている。
セイロン(現在のスリランカ)は、もともとコーヒーの島でした。19世紀半ば、島の高地には広大なコーヒー農園が広がっていました。
そこへコーヒーさび病が広がります。葉が落ち、木が弱り、農園は次々に立ちゆかなくなりました。ただし崩壊は一年で起きたわけではなく、1870年代から80年代にかけて進みます。病害だけが原因でもなく、価格や採算の悪化も重なりました。
転換の受け皿になったのが茶でした。ジェームズ・テイラーはさび病が広がる前の1867年、ルーラコンデラで茶の栽培を始めています。先に始まっていた試みが、危機のときに逃げ道になった——という順番です。
この切り替えがなければ、ウヴァもディンブラもヌワラエリヤも、いま私たちが知る紅茶産地の姿にはなっていません。
1875〜1876年
多田元吉、インドへ渡る
国産紅茶をつくるため、日本から製茶技術を学びに行った人がいました。
日本の紅茶用品種べにふうきの母方は、彼が持ち帰った系統に連なる。
明治のはじめ、日本は輸出品として紅茶をつくろうとしていました。生糸と並ぶ外貨の稼ぎ手にする——という国の方針です。1875年には熊本・山鹿などに紅茶伝習所が置かれました。
しかし、緑茶をつくる技術と紅茶をつくる技術は違います。そこで多田元吉が1876年にインド・セイロンへ渡り、製茶の技術と茶の種子を持ち帰りました。
国産紅茶づくりはその後、安い輸入紅茶に押されて衰えていきます。人件費も生産コストも高く、品質と価格の両方で競り負けました。1971年の輸入自由化が、その流れを決定的にします。
それでも系譜は切れていません。日本の紅茶用品種べにふうきの母方は、多田がインドから持ち帰った系統に連なります。1990年代から各地で復活した和紅茶は、100年以上前の旅の続きでもあります。
あわせて読みたい
6件を取り上げています。